こんにちは、ケンボーです。今回は福井県の旅行で訪問した平泉寺白山神社についてです。
◼️平泉寺白山神社◼️
○アクセス
福井県勝山市平泉寺町平泉寺
○駐車場 有り
○規模 4
○秘境 3
○マイナスイオン指数 5
○祭神・歴史
ウィキペディアより引用・・・
祭神
本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。
歴史
寛政年間建立の本殿717年(養老元年)、泰澄によって開かれたという。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなした。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として山伏僧兵が集まるところとなり、朝倉氏の保護を受けていた室町時代後半の最盛期には、48社、36堂、6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した[2]。
『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。
鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた義経主従が、山伏姿に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている[2]。
戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、織田信長に攻められたことによる朝倉氏滅亡後の1574年(天正2年)、一向一揆が勃発、逃れてきた朝倉景鏡をかくまった為4月、一向一揆に焼き討ちされて全山を焼失した[2]。その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。1688年(寛政8年)いさかいが絶えなかった越前馬場と加賀馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。明治時代に神仏分離令により寺号を捨て神社として残されて現在に至る[2]。
波瀾万丈な歴史ですね
◼️周囲と異なる雰囲気
ナビを使えば迷うことはないと思いますけど。車一台ほどの幅しかなさそうな小道を入ります。ここに入ると田舎町から一転、森林に入ったような雰囲気。パワースポット指数上昇します。
うーむ、そそられる。
◼️境内
見てください、このいかにもな雰囲気。
入り口付近にはお店もあり、けして静まり返ってるわけではないんですけど。
いい感じにオーラを発してます。昔の人はよくこういう場所をみつけますね。
参道はゆるやかな石段になってます。
まわりの木々は手入れされてる感じはないなあ。自然がそのまま景観と一体化している。
しばらくすると開かれた参道へ。
ここは苔が見応えがあるとのことで側道にびっしり生えてます。。でも、きれいではないかな??
木の鳥居
本殿周り。苔がびっしりです。
本殿を遠くより。苔の絨毯に木々に囲まれてと、マイナスイオンたっぷりです。
深呼吸ううふぅうー
そうして参拝。
その後奥の院へ向かいます。
本殿の裏側より更に奥へ続く参道。
天気は良かったのですが、日が隠れるほどの木々が生い茂ってます。
奥の院。けっこう長く、坂道が続いて疲れた。。。
境内は思ったよりも広く、ひたすら苔と木々が広がってます。なんというのか、この空間だけ外から取り残されてるみたい。
◼️御朱印はこちら
社務所が入り口付近にあり、帰りに寄らせてもらいました。
お話の好きなおばちゃんが書いてくれたのがこちら
。。。お、おばちゃん、インクが滲んでますが。
でもこういうのも後に思い出になるからね、そうだね。
ネットではあまり でてこない神社でしたが雰囲気はすごくいいです、福井県にいくことがあれば是非。
それではっ